
ともに祈ります。
東京アンテオケ教会 いやしの集いブログ
ともに祈ります。
■イエスキリストの十字架がいやしの土台です。
“しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。”
イザヤ書 53章5節
■主は今も生きておられ、いやしぬしでいらっしゃいます。
“イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。”
ヘブル人への手紙 13章8節
■病院には必ず行きましょう
神様は医療をも用いていやしてくださいます。
■教会につながる
“教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。”
エペソ人への手紙 1章23節
■いやされない特別な形も
また、特別な神様のご計画で、病がいやされないまま神様の恵とご栄光があらわされる形もあります。
そうでなければ、祈り求めていく中で、主はいやしてくださいます。
こう言う作業をしておられて、お腹が痛くなって来ました。
トイレに行ったら作業に穴が空くのでその場をはなれられないとき、神に必死で祈り叫んだ。そしたら痛みが引いて行かれたそうです。
いやされない場合もあります。それは、いやされなくても、そのままで神の栄光を現される計画があるからなのです。
いやされなくても意味があるのです。
神は無意味なことはされません。
“まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。”
イザヤ書 53章4~5節
これがいやしの基本になる箇所と、言えます。
たとえ妨げられても、
たとえ無理だと思っても
主に求めていくなら受けるのです!
バルテマイは答えます。
「目が見えるようになりたいのです」
無理だと思ってもイエスに心の願いを求めなければ、それは起きないのです。
“彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。”
マルコの福音書 10章46~48節
“すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。
すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。”
マルコの福音書 10章49~52節
「神様に期待して心の願いを祈り求める」
というテーマで聖書からのお話です。
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