
イエスキリストを信じるお祈りを共に
イエスキリストを信じるお祈りを共に
教会を訪れて来られる方々が、
次々祝福されてゆきます。
教会の驚くべき恵、最高の祝福。
最後に来た人から、働きにふさわしくない人から、賃金を上げなさいと言われた。
ふさわしくない人が先に貰えた。
それが教会という場所です。
自分はふさわしくないという方がおられたら、教会に来てください。
最後の方々が先に賃金を貰えた。
不思議ですね……私たちは愛されています。
私たちは、生かされています。
キリスト教の歴史の中でも、今は最後の最後かもしれません。
しかし、、その時に私たちは召されたんです。
ふさわしくない、ものが召されているんです。
これからどんどん主の働きが起こっていくんです。
最後の人から与えなさい、
これは神様の大きな愛を示しています。
この、みことばに書いてある、
最後に葡萄園に来た人は、本来ならふさわしくない人なのです。
価値ない、資格のない存在。
それは、罪人である私たちの事です。
この一番相応しくない者を神様は祝福します。
と、そういう意味なのです。
その、祝福は教会にあります。
ここに最高の祝福があります。
谷口さん、以前、山梨に住んでいらしたので、葡萄園に詳しくいらっしゃいます。
“天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。”
マタイの福音書 20章1~14節
一握りの人が一流大学に入る
一流大学、、敷居が高く踏み込めないもの。
ある方にとっては教会の敷居が高いと感じられている方も。
でも、教会は、どなたでも大歓迎なのです。
そして、教会に属するなら、神様により最高の人生が開かれます。
教会にはキリストが満ちているからです。
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